明治時代に金谷宿と日坂宿の間を切り開いてできた有料道路、中山新道の料金所跡のほか、料金を書いた桧製の料金表一枚と、開削免許条件や資金償却概算書など、中山新道に関する古文書六通です。
江戸時代、小夜中山の峻険な峠は東海道の難所として知られていましたが、明治5(1872)年に、道路や橋の建設修理工事を行った者が、かかった費用を交通料として徴収することができるという、有料道路の建設を認める明治四年太政官布告第648号が発令すると、文政12(1829)年生まれの杉本権蔵が小夜中山を切り開いて道路を建設することを思い立ちました。杉本権蔵の中山新道は全長約6.7km、人夫延数万人をかけて明治13(1880)年5月30日に完成しました。現在残っている桧板の料金表によると、通行料は次のようになっています。 一金壱銭弐厘 歩行壱人 一金壱銭八厘 空人力車壱輌 但 車夫共 一金弐銭 牛馬壱疋 一金六厘 分持壱荷 但 米穀負担共準之 一金壱銭 指長持壱棹 一金参銭八厘 荷牛馬壱疋 但 牛馬丁共 一金五銭 空馬車壱輌 但 馬丁共
太政官布告に基づき整備された有料道路は、このときすでに箱根国道が人力車専用道として整備されていましたが、有料道路として一から建設を行った有料道路はこの中山新道が最初となります。 なお、太政官布告に基づき建設された最初の有料橋梁は島田と金谷を結ぶ旧国道大井川橋で、明治9(1876)年建造されました。そして、中山新道が完成する前年、明治12(1879)年には島田と初倉を結ぶ世界一長い木造橋、蓬莱橋が完成しています。 中山新道は開通した当初こそは多くの旅人でにぎわいましたが、明治22(1889)年に国鉄東海道線が全通したことで旅客は激減、道銭場の利益も急激に落ち込み償却不能に陥ってしまいました。最終的には明治35(1902)年7月17日付で中山新道は公道に編入され、道銭場は閉鎖されたということです。
昭和45年(1970年)2月14日 旧金谷町(当時)指定史跡に指定されました。
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