島田の文化財

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   市指定文化財
 (民 俗 資 料)


大高欄


平蓮台


大井川川越しに関する用具



 江戸時代〜明治時代

 
大井川の蓮台越しに実際に使用されていた蓮台や、番宿周辺への連絡に使われた高札などの用具数点です。現在は川越遺跡内の川会所などに展示されています。

 

昭和32年(1962年)3月22日、島田市指定文化財に指定されました。


   市指定文化財
 ( 史    跡 )

宗長庵趾

島田市日之出町駅前広場内



 

 宗長庵は、元禄年間(1688年〜1704年)に島田宿の俳人塚本如舟が室町時代の連歌師宗長を偲んで建てた庵で、地元や旅の雅人と諷詠を楽しんだところとされています。


今この場所は
JR島田駅構内となっており、宗長のほか、如舟と親交のあった 松尾芭蕉の句碑が建立されています。

平成20年には、島田駅の新築整備に伴いもとの場所から南へ10mほど移設されました。

 

昭和32年(1957年)105日 島田市指定史跡に指定されました。


   市指定文化財
 ( 史    跡 )

愛宕塚古墳

島田市阪本4395番地



谷口原古墳群のうち最も大きなもので、全長21.5m、高さ2.75mの前方後円墳です。古墳時代後期のものとされており、多数の玉類、須恵器、土師器、鉄製品が出土しました。

 

調査終了後安全のために入口は塞いでありますが、補強措置や排水措置をかけて自由に見学ができます。

 

昭和38年(1963年)103日 島田市指定史跡に指定されました。

 

 


   市指定文化財
 ( 史    跡 )

駒形古墳

島田市野田91の6



この古墳は大津地区の古墳の一つで東西5.45m、南北9.10mの楕円形の円墳です。昭和3(1928年)に刀子、金環、大刀身、鏃、鐔、馬具、須恵器等が出土しています。

 

玄室は長さ5.50m、巾は最大1.60m、高さ最大2mで、玄室の東北壁を利用して粗製組合せ箱式石棺をつくっているのが特徴です。

 

昭和32年(1957年)105日 島田市指定史跡に指定されました。

 


   市指定文化財
 ( 史    跡 )

横岡宮の段古墳

島田市横岡315番地



金谷地区では珍しい、古墳時代(4世紀〜7世紀)の遺跡です。明治33年に発掘され、耳飾、刀片、須恵器などが見つかっています。これらの出土品は東京の国立博物館に収蔵されています。


宮の段古墳は全長5.5mほどの円墳で、内側は横穴式割石積石室です。石室は羨道(参道)と玄室(死体を安置する室)にわかれ小突起状の羨門で区別する構造をとっています。

 

昭和45年(1970年)214日 金谷町(当時)指定史跡に指定されました。

 


   市指定文化財
 ( 史    跡 )

 

中山新道の道銭場・附料金表・中山新道の古文書

島田市佐夜鹿91の2



 明治時代に金谷宿と日坂宿の間を切り開いてできた有料道路、中山新道の料金所跡のほか、料金を書いた桧製の料金表一枚と、開削免許条件や資金償却概算書など、中山新道に関する古文書六通です。

 江戸時代、小夜中山の峻険な峠は東海道の難所として知られていましたが、明治5(1872)年に、道路や橋の建設修理工事を行った者が、かかった費用を交通料として徴収することができるという、有料道路の建設を認める明治四年太政官布告第648号が発令すると、文政12(1829)年生まれの杉本権蔵が小夜中山を切り開いて道路を建設することを思い立ちました。杉本権蔵の中山新道は全長約6.7km、人夫延数万人をかけて明治13(1880)年5月30日に完成しました。現在残っている桧板の料金表によると、通行料は次のようになっています。


一金壱銭弐厘 歩行壱人
一金壱銭八厘 空人力車壱輌 但 車夫共
一金弐銭    牛馬壱疋
一金六厘    分持壱荷 但 米穀負担共準之
一金壱銭    指長持壱棹
一金参銭八厘 荷牛馬壱疋 但 牛馬丁共
一金五銭    空馬車壱輌 但 馬丁共


 太政官布告に基づき整備された有料道路は、このときすでに箱根国道が人力車専用道として整備されていましたが、有料道路として一から建設を行った有料道路はこの中山新道が最初となります。
 なお、太政官布告に基づき建設された最初の有料橋梁は島田と金谷を結ぶ旧国道大井川橋で、明治9(1876)年建造されました。そして、中山新道が完成する前年、明治12(1879)年には島田と初倉を結ぶ世界一長い木造橋、蓬莱橋が完成しています。
 中山新道は開通した当初こそは多くの旅人でにぎわいましたが、明治22(1889)年に国鉄東海道線が全通したことで旅客は激減、道銭場の利益も急激に落ち込み償却不能に陥ってしまいました。最終的には明治35(1902)年7月17日付で中山新道は公道に編入され、道銭場は閉鎖されたということです。

 昭和45年(1970年)2月14日 旧金谷町(当時)指定史跡に指定されました。

 


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 ( 史    跡 )

横岡(志戸呂)城跡

島田市横岡502の1



宇田城、志戸呂城、鶴見城などとも呼ばれる、室町時代末期に遠州三十六人衆と呼ばれた小豪族、鶴見因幡守栄寿の居城跡です。敷地は1340坪あまりで、小規模な平山城です。

 

横岡城は今川氏との戦に破れたあと廃城となり、今では大部分が茶畑として潰されてしまいました。大手の外郭の土塁の一部と直径2平方メートル程度で周囲を丸石で覆っている古井戸を残すのみです。

 

昭和53年(1978年)630日 金谷町(当時)指定史跡に指定されました。

 


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 ( 史    跡 )

旧東海道と石畳(金谷坂)

島田市坂町



石畳茶屋から菊川へ抜ける旧東海道は、旅人の安全な歩行のために石畳が敷き詰められていました。しかしながら、時代の移り変わりによって30mだけを残して舗装が施されてしまいました。

 

この周辺には三猿像のある右手庚申堂、芭蕉句碑が二本、明治天皇御駐輦石碑などの史跡が残っています。

 

平成3年には、一人一石運動「平成の道普請」と銘打ち町民から大井川の川原石を集めてもらい、石畳を430mまで延長しています。

 

昭和60年(1985年)223日 旧金谷町(当時)指定史跡に指定されました。

 


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 ( 史    跡 )

石上城跡

島田市川根町笹間上



石上城は笹間上にある中世の山城です。築城時期は不明ですが、南北朝時代
13361392年)には徳山城の支城として南朝方に属していたことが知られています。その後駿河国の支配者が今川、武田と代わっていっても、この地を代々治める石上氏が城主となっていました。


天正3年(1575年)に遠州二俣で起きた徳川氏と武田氏との戦いで、城主石上兎角之助が討死した後は廃城となり、現在は土塁や掘の跡が残るだけです。

 

昭和46年(1971年)31日 川根町(当時)指定史跡に指定されました。

 

 


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 ( 史    跡 )

又平庄太郎氏記念碑

島田市川根町家山294の1



安政3(1856年)に川根町家山に生まれた又平庄太郎は、当時は島とよばれ葦の生い茂る荒地だった家山の大井川河岸を整備し、木材問屋を兼ねた製材工場をつくって事業を興し、後に上流と下流で木材を運搬する、川根村ではじめての船着場を建設しました。

 

船着場にはお茶やシイタケと日用品を売買する者や材木を運搬する筏がつくようになり、人々の出入りが多くなるにつれて島には旅館や鍛冶屋、菓子屋、銀行等もできて栄えました。

 

又平庄太郎が明治32年(1899年)に亡くなると、人々は彼の業績を讃えてこの記念碑を建てました。碑は縦書きの漢文で、その最上部には時の静岡県知事李家隆介氏が「記念碑」と篆字で書き記しています。

 

昭和58年(1983年)61日 川根町(当時)指定史跡に指定されました。

 


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 ( 史    跡 )

天王山遺跡

島田市川根町家山579



天王山遺跡は、野守の池より東側の小高い神社の社が見える小山にあります。平成5年の調査では、縄文時代早期(約8千年前)から人が住み始めていたことがわかりました。大井川上流域でも最初の頃(約1700年前)に弥生時代の集落や古墳が確認されています。

 

古墳は直径8mの方形をしており、細長い穴を掘って木の棺を直接埋め、周りに溝を掘っています。ただし、すべて掘りきらないで四隅は残し、一部に川原石を並べた特別な形をしています。

 

天王山遺跡は、現在史跡公園として整備され、ここから川根市街を見下ろすことができるようになっています。

 

平成13年(2001年)119日 川根町(当時)指定史跡に指定されています。

 

 


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