松尾芭蕉 真蹟「田植えの連句」
1694(元禄7)年(島田市指定文化財)
軸装
1694年5月15日、島田に着いた松尾芭蕉は塚本如舟に逗留をすすめられ、その後大雨で川留めになり四泊しています。連句では、如舟の「今年できの麦ですから、やはらかにたけよと申し置きました」という芭蕉への気遣いと、「忙しいときお邪魔しました。田植え時ですから私も、朝早く起きて旅にでます。」という芭蕉の心情が詠まれています。懐紙に淡彩で描かれている絵は、麦の絵と思われます。
芭蕉翁七部集
1732(享保17)年
芭蕉一門の代表的な撰集として、蕉風伊勢派の俳人である佐久間柳居が芭蕉没後の1732(享保17)年頃に編集しました。芭蕉や弟子たちが詠んだ俳句を「冬の日」「春の日」「曠野(あらの)」「ひさご」「猿蓑(さるみの)」「炭俵」「続猿蓑」の七部12巻程に分類した構成となっています。
福田半香「石野雲嶺宛手紙」
江戸時代
巻子
勝海舟「鉄舟像画賛」
明治時代
軸装
勝海舟「大海軍建設の歌」
明治時代
六曲一隻屏風
山岡鉄舟「宝珠」
明治時代
軸装
山岡鉄舟
明治時代
六曲一双屏風
高橋泥舟「富士越龍」
明治時代
軸装
高橋泥舟「三行書」
明治時代
軸装
伊佐新次郎書・岸礼画「二河白道図」
明治時代
軸装
若くして書、仏典、漢籍を修め、特に書は草書を得意とし如是(にょぜ)と号しました。幕末の三舟といわれる高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟に書を教授したのをはじめ、明治時代に活躍した逸材たちも教えを受けています。後に、谷口原(島田市初倉)に居を定めて私塾を開き、旧幕臣の子弟や近隣の人々に漢籍、書などを1890(明治23)年頃まで教えていたといわれています。
伊佐新次郎「鶴に問う」
明治時代
額装
森鴎外「置塩棠園宛手紙」
1916(大正5)年
巻子
石川依平「山家のうた」
江戸時代後期
軸装
歌人、国学者。東山口村伊達村(現掛川市伊達)に生まれ、6歳にして和歌を詠じ、9歳で冷泉為章の門に入って歌道を学びました。後に賀茂真淵や本居宣長から教えを受けた栗田士満に入門、国学を修め、近藤芳樹、加納諸平と共に一木二平と呼ばれ、掛川藩主にその勉学を賞せられました。主な著作には、「古書序表」「萬葉新採百首續編」「柳園集」などがあります。
西有穆山「洗眼…」
明治時代頃
軸装
置塩棠園「村居逢重陽」
大正時代頃
軸装
志太郡島田町(島田市)に生まれ、生家は江戸時代に本陣を務めた家柄でした。本名は維裕(いゆう)、幼少より漢学・国学を学び、棠園と号して、漢詩・書道を嗜みました。1900(明治33)年に、内務省神官禰宜として伊勢神宮に奉職し、神宮皇學館講師を兼任しました。1917(大正6)年、島田町長に就任し、8年間町政に尽力すると共に郷土史の編さん等、文化高揚にも功績を残しています。著書には「聴雲楼詩鈔」、「棠園文鈔」などがあります。