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川越資料

大井川川越し川札

大井川川越し川札

江戸時代
川札は「油札」ともいいます。川札一枚が川越人足一人の賃金で、川越人足は川札を受け取ると、頭の髪の毛または鉢巻きに結びつけました。美濃紙を十二行に裁ってつくられていて、その上方に川会所または年行事の黒印が押され、端には「川札」と墨書されていました。全体に油(柿渋)を塗り、約3分の2はこより状に撚ってありました。柿渋を塗るのは耐水性を高めるためで、こより状にしたのは鉢巻きや髪の毛に結ぶのに都合がよかったからでしょう。このような「川札」がいつごろから使われたのかは不明ですが、1691(元禄4)年、ドイツ人医師ケンペルが江戸参府のため東海道を旅行した旅日記の中に、すでに「油紙」によって川越賃を扱っていることが記されていますので、「川越制度」が確立する以前から利用されていたと思われます。

 

大井川川越し台札

大井川川越し台札

江戸時代
「台札」は、連台に乗って越すには必ず買わなければならず、価格は川札の二倍に相当しました。これは中頭紙を横にして、幅七分ほどに裁ち、川札同様に川会所または年行事の黒印を押し、その端に「台札」と墨書したものです。その起源は川札同様に、1696(元禄9)年、川庄屋が任命されて「連台」が考案、設置されてから、その使用料、損料として「台札」が利用されるようになったものと思われます。

 

川越人足賃銭受取状(金谷川庄屋・藤枝瀬戸川)

川越人足賃銭受取状(金谷川庄屋・藤枝瀬戸川)

江戸時代
通常、旅人は川会所で川札を求めて、それを陸取り(おかどり)という世話人に渡します。陸取りはその旅人を川越人足に紹介し、それから川越し開始となります。従って川越人足に賃銭が支払われるのは川越しの仕事を済ませた後になります。しかし藤枝の場合は、川庄屋が3人分の川越人足賃を一括して旅人から受取ったということになり、また金谷の場合は24人分を一括して受取っています。ここに掲載する文章はその川越人足(川札)賃銭の受取状です。

 

連台の図面(嘉永三年 戌年)

連台の図面(嘉永三年 戌年)

1850(嘉永3)年

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