平成21年~平成27年まで国指定史跡諏訪原城跡の史跡整備に伴う発掘調査で得られた成果をまとめたものです。これらの成果をもとに、平成25年度から現地での本格的な史跡整備事業を開始しております。
諏訪原城跡発掘調査について -考 察-
「史跡諏訪原城跡-平成21年度~平成27年度発掘調査報告書-」2018島田市教育委員会より抜粋
加藤 理文(諏訪原城跡整備委員会委員)
平成21年度から27年度にかけて実施された発掘調査によって、諏訪原城はそれまでの評価を一変させてしまった。従来、大井川の河岸段丘を利用し、背面と側面の急崖を巧みに取り込み、主郭から城域を扇形に広げ、台地続きに巨大な横堀を配し遮断線を設け、さらに前面に巨大な丸馬出を設けた「武田系」城郭の典型とされてきた。だが、今回の調査によって二の曲輪から西側のほとんどが、徳川氏が攻略した後の改修による造作であることがほぼ確実となったのである。諏訪原城については、深溝松平氏の当主・松平家忠(又八郎)が記した『家忠日記』(『増補続史料大成』19)に、普請の記載が頻繁に登場し、徳川氏の手による改修があることは従前より知られていた。だが、その普請は武田氏の構築した城の構造を踏襲しつつ、堀幅を広げたり、最前面にコの字型に配された大手曲輪を設けたりするものと思われていた。今回の数次にわたる調査により、主郭と二の曲輪の南側に広がる小規模な馬出を除けば、全てが徳川氏による新造と判明。武田氏の典型と評価されていた大部分の遺構は、徳川氏の手によることが明らかとなり、徳川氏による築城技術の一端が垣間見られることになったのである。
1.主な発掘調査成果
二の曲輪を中心に、接続する周囲を含めトレンチ(発掘調査をするために掘られる溝)を設定し、遺構の残存状況等が確認された。これにより、二の曲輪中馬出の状況が判明してきた。馬出内部からは、明確な建物跡等は検出されなかったが、石列・石敷遺構・柱穴などを検出、頻繁に土木工事が行われていたことが解った。中馬出の縁辺部には、幅約11mの土塁が存在し、土塁外側に約1.2mの犬走り状を呈す通路上の遺構を確認したが、用途ははっきりしない。また、曲輪側で土塁の土留めの石列(南北7m弱)も確認され、しっかりとした設計のもと工事が進められたことが推定される。二の曲輪中馬出の南北出入口も調査されたが、門跡は未検出であった。特筆されるのは、南側出入口の外側で南北5.5×東西4mの竪穴状建物遺構を検出したことである。その位置から、南側出入口を監視する番小屋のような役割が想定されるが、内部で焼土層と鋳造薄片が出土、平時に武器等の鉄製品の簡易的な修繕が行われていた可能性が出てきた。戦闘行為の無い平時における武将たちの行動の一端が見えてきたのは、注目に値する。なお、二の曲輪中馬出前面に位置する三日月堀と、接続して北側に伸びる横堀も調査されている。三日月堀は、外側惣曲輪の地表面から10.5mの深さと判明、横堀との高低差は約3.5mで、三日月堀を掘った後に、北へと続く横堀が掘られていた。従って、二の曲輪中馬出を構築した後、重ね馬出となる二の曲輪北馬出の普請へと進んだことになろう。二の曲輪中馬出周辺で確認された遺構面は1面のみで、多時期に渡る使用は認められない。出土遺物は、大窯第2段階の皿類、大窯第3段階の碗・天目茶碗、大窯期の擂鉢、16世紀代の内耳鍋、同カワラケ、永楽通宝1点、鉄砲玉3点が16世紀代のものであった。
二の曲輪虎口周辺と中馬出との土橋、中仕切りの土塁に確認トレンチを設定し遺構の残存状況を把握した。土橋を渡った箇所で礎石城門(南北約2.4m×東西約1.5m)を検出、門北側に築地塀あるいは板塀などの工作物の基礎と推定される整地面を確認し、門の左右に塀が存在していたことが判明した。また、外堀に平行する幅約20mの土塁の基底部を確認、曲輪規模は東西50m程であるため、曲輪面積の4割が土塁によって占められていたことになる。外堀を掘った土量が膨大であったための事象として捉えられよう。二の曲輪を南北に仕切る土塁については、後世の改変の可能性もあったが、調査によって版築の痕跡を確認したため、当時の遺構と判明。さらに、西側土塁との接点に幅約1mの開口部を検出、二の曲輪南北間を繋ぐ通路と推定される。二の曲輪と二の曲輪中馬出は、現在土橋によって接続するが、中央部がかなり低くなっているため現道の南端部でトレンチ調査を実施した。調査によって、土橋は無く幅約5mに渡って途切れていることを確認、両端で残存する橋台の遺構を検出した。これによって、二の曲輪と二の曲輪中馬出の中央部には木橋が架けられていたことになる。二の曲輪中馬出と二の曲輪北馬出間も木橋(曳橋)が確認されており、二の曲輪中馬出は南側のみ土橋で、他二カ所が木橋によって接続する極めて独立性の高い馬出と判明した。徳川氏が馬出をどのように利用しようとしたかを窺い知る貴重な発見と評価されよう。出土遺物は、年代不明の陶器類小破片と、鉄砲玉1点である。
大手曲輪は南北に残存する堀跡にそれぞれトレンチを設定し、その構造と遺構の残存状況を確認した。北側にある大手北外堀は、幅約5m、深さ6m(大手曲輪側土塁残存部から)、形状は断面逆台形の箱堀で底面の幅は約1.5mであった。法面の角度は、曲輪側が約45度、北側惣曲輪側が約50度となる。堀を掘った残土は内側に盛られ土塁としていたようだが、牧之原礫層であるため版築等の痕跡は認められなかった。特筆されるのは、惣曲輪側堀法面で、広さ50cm程のテラスを確認したことで、堀の掘削に伴う足場と考えられる。堀の掘削過程を知る良好な資料となろう。また、大手北外堀の立ち上がり(東端)を検出したことによって、東側二の曲輪外堀との間に通路となる空間(約7m)が存在していたことも確実な状況である。
南側の大手南外堀は、幅約5m、深さ3.3m(城外側地表面から)で、形状は断面V字を示す薬研堀であった。法面の角度は、両側共に約50度である。土塁は、城内側、城外側の両方で認められず、南外堀は土塁を持っていないことになる。その場合、堀を掘った残土は曲輪内の平坦面確保のために利用されたとするのが妥当であろう。東側大手馬出三日月堀との接合部も確認調査が実施され、幅約4mの空間が存在していることが判明、北外堀同様通路としての機能が想定されるが、門等の遺構は検出されていない。
城域の最南端に3カ所存在する小型の馬出について、その規模と機能、遺構の残存状況を確認するための調査も実施された。小型馬出の北側端部の二の曲輪東内馬出外堀の調査が、数次に渡る調査最大の成果となった。堀の断面形状が薬研堀を改修した箱堀と判明したのである。これは、武田氏時代に設けられた薬研堀を徳川氏が箱堀に改修した結果として捉えられる。トレンチは、北東側から南西側に位置する堀跡に3カ所設定した。現地形は、北東側が低く、南西側が高くなっている。堀跡も、北東側が低く南西部に向かって高くなり、土橋へと接続し消滅している。北東側の堀幅は約7mで、深さは馬出曲輪内から約3.5m、二の曲輪側から約4.4mで、箱堀底面の幅は約3.5mであった。箱堀底面で、幅約1.5m、深さ約60cmの薬研堀を確認した。中央部の堀幅は約4.1mで、深さは馬出曲輪内から約3.8m、二の曲輪側から約2.5mで、箱堀底面の幅は約1.8mであった。法面の角度は、東内馬出曲輪側が約75度で北側二の曲側が約60度であった。箱堀底面で、幅約80cm、深さ約40cmの薬研堀を確認した。南西側の堀幅は約6.8mで、深さは馬出曲輪内から約4m、二の曲輪側から約5.5mで、箱堀底面の幅は約70cmであった。箱堀底面で、薬研堀は確認されなかった。武田時代の薬研堀を断面から復元すると、堀幅は約4m、深さは約3.5~4mと規模自体は決して大きいものではない。そのために、徳川時代に防衛力強化のために堀幅を倍に広げたと推定される。
曲輪内部の状況についてであるが、曲輪の外郭縁辺部に沿う形で逆L字状の土塁を確認した。この土塁も2時期が認められ、当初の土塁を崩し、堀側の窪地を埋め立て新たな土塁を構築している。北側部分の土塁幅は約2.6m、残存高約70cm、南側虎口付近が幅約3.3m、残存高60cmであった。土塁先端部で土塁と並行する直線状の石列6石を確認したが、用途等ははっきりしない。また、曲輪内で5カ所の柱穴を確認したが、建物跡になる並びではなかった。南西側のトレンチ最深部で柱穴も確認され、曲輪内部も2時期の遺構が認められている。出土遺物は、堀内及び曲輪面で、16世紀後半の内耳鍋、大窯第3段階の碗皿破片、16世紀代の中国産白磁片、鉄砲玉16個である。天正期の遺物として問題なく、特に鉄砲玉の多さは、ここが武田時代の最前線にあたり、攻城戦が展開されたことを裏付ける。
二の曲輪南馬出は、西側台地に面する最南端に位置する小規模な馬出で、その規模と機能、遺構の残存状況を確認するため3カ所にトレンチを設定し調査を実施した。南馬出前面の三日月堀の堀幅約13m、深さは曲輪側から約5.8mで堀外側からは7.8m程であった。断面は逆台形を呈す箱堀で、底面幅は約2.8m、法面の角度は曲輪側が約45度、城外側が約55度となる。曲輪内に土塁の痕跡が認められず、当初から土塁は設けられなかった可能性が高い。おそらく、丸馬出が東西約20m、南北約12mと極めて小規模であったため、土塁ではなく柵あるいは土塀を設けることで対処し、曲輪内部を有効活用しようとした表れと理解したい。城外側と接続する土橋は、幅約2.8mで、馬出側に対し低くなっており、曲輪内からの攻撃を有利にしようとするためとも考えられる。出土遺物は、27個の鉄砲玉が集中出土している。床面の一カ所に集中していることから、玉袋が破れ一度に落としたケースや、戦闘局面でより早く玉込めするために一カ所に置いていたケース等も想定され、極めて特異な状況であることに間違いない。南馬出では、堀の断面及び曲輪内部にも下層遺構は認められず、この馬出は徳川氏による新造とするのが妥当である。
城域の最南端に3カ所存在する小型の馬出の内、最南東部に位置し、最も小規模な馬出が二の曲輪東馬出である。曲輪内部と南側の堀にトレンチを設定し、その規模と機能、遺構の残存状況を確認した。明瞭な遺構は、城外側との間で検出された2石の礎石で、土橋を渡った曲輪の最前面に位置する。明らかに門礎石と思われるが、北側の対になる礎石は亡失している。幅から考え、北側に存在する堀の崩落によって失われたか、堀際にあったため、後世の耕作、あるいは植林時に破棄されたことも考えられる。2石のみではあるが、共に現位置を保っているため、門礎石と判断した。土塁を検出することは出来ず、南馬出同様極小な面積であるため、土塁が構築されなかったと考えたい。特筆されるのは、遺構面が2面存在することである。礎石に伴う灰白色の整地面と、その下層に鉄砲玉等の遺物を含む黒色土の整地面が存在。上面が徳川氏、下面が武田氏による整地の可能性が高い。南側の堀は、幅約9.3m、深さは曲輪側から6.7mで城外側からは6.2mであった。断面は逆台形の箱堀で、底面幅約1.2m、法面の角度は曲輪側が約50度、城外側が約60度となる。この堀の曲輪側法面にも堀を掘削する過程で使用したと推定される足場状の幅約1.2mのテラスが検出された。複数個所の堀で同様の遺構が確認されているため、堀を掘り進める段階の足場として問題はあるまい。二の曲輪東馬出から30m程伸びて二の曲輪東内馬出に続く土橋にもトレンチを設定し、その幅を確認したが幅約40cmと極めて狭いことが判明した。崩落等を勘案しても80cm程と人ひとりがやっと通れる幅でしかない。ここでも鉄砲玉が10個出土しており、小曲輪全体で53個と周辺域で大規模な攻城戦が展開した可能性が高まった。
2.徳川氏による改修
平成16年から19年にかけて実施された本曲輪の調査によって、焼土面を埋め立てた整地の存在を確認すると共に、焼土面上に土塁が存在することも判明した。本曲輪が落城時に焼亡し、その後徳川氏によって焼土層が埋め立てられ、新たな整地造成が実施されていたのである。土塁が、焼土面の上に盛られていることから、本曲輪外堀の掘削が徳川氏によって実施されたことも確実な状況となった。本曲輪外堀の掘削による排土を本曲輪側に盛り、土塁を構築したのである。当然、形状を同一にする二の曲輪外堀も、徳川氏の手による可能性が高まった。
平成21年度から実施された調査では、本曲輪で確認された二時期の整地面の広がりや、各地区の遺構の残存状況を把握することに主眼が置かれた。特に、城内最大規模を持つ二の曲輪の造成主体、我が国でも屈指の規模を誇る二の曲輪中馬出、それに付設する二の曲輪北馬出についても、遺構の残存状況を確認し、築城主体者に迫る資料を得ることが期待された。
二の曲輪外堀に平行する土塁が、幅約20mと判明し、本曲輪同様外堀の排土を利用し構築した土塁で、徳川氏の手によったとしてほぼ間違いあるまい。また、中央部虎口で検出された礎石城門、同じく二の曲輪北馬出で検出された礎石城門も、本曲輪虎口の城門と構造規模がほぼ同一で、同一築城者によるものと判断され、これも徳川氏ということになろう。また、礎石を据えた整地面(造成面)が、二の曲輪・二の曲輪中馬出・同北馬出ともに一面のみで、下層に遺構面が存在しない。これも、二の曲輪・二の曲輪中馬出・同北馬出が、徳川氏による新造を裏付ける。
城域の最南端に3カ所存在する小型の馬出の内東側の二つの馬出が、武田氏の遺構を利用して、徳川氏が改造を施したと証明された。小型馬出の北側端部の二の曲輪東内馬出外堀の断面観察によって、武田氏時代に設けられた薬研堀を徳川氏が箱堀に改修した痕が、明瞭な形で確認された。また、トレンチ調査によって、上層遺構面の下層に柱穴を伴う整地面も確認され、これを裏付けている。城域の最南端に位置し、最も小規模な馬出である二の曲輪東馬出では、礎石城門に伴う灰白色の整地面と、その下層に鉄砲玉等の遺物を含む黒色土の整地面を確認している。上面が徳川氏、下面が武田氏による整地と判断される。ここで出土した遺物の中で、特に注目されるのが鉄砲玉である。小曲輪全体で53個が出土したが、面積から考えても異常な多さと言わざるを得ない。周辺域で大規模な攻城戦が展開した結果として捉えられる。
前述のような状況と、唯一の普請の記録が記載された『家忠日記』の記述と比較検討して、発掘成果がどう理解されるかを考えておきたい。以下、普請関係の記録のみ抜きを記す。
天正六年(1578)
三月 十日 牧之原城迄帰陣候。
十一日 牧野城普請候。
十二日 同普請候。
十八日 牧野原普請出来候て、浜松迄帰候。
八月 七日 牧野番替候。(後略)
八日 (前略)牧野城堀普請候。
九日 (前略)同普請候。
十日 (前略)普請候。
廿日 普請出来候。(後略)
九月 四日 西駿河より、家康牧野迄御帰陣候。
(中略)牧野市場普請候。
五日 同普請候。(後略)
六日 家康、信康御陣候。国衆は普請候。
牧野衆は今城江働候。
七日 牧野普請出来候。懸河迄帰陣候。
天正七年(1579)
三月 六日 (前略)人数浜松ニ半分置候て普請
十日 番普請候。(中略)同普請候。
十一日 (前略)普請出来候。
十月 一日 (前略)牧野城?普請候とて、
各浜松へ御帰陣候。
天正八年(1580)
五月 二日 牧野迄諸人数付候。(後略)
廿二日 (前略)番普請出来候。
徳川氏による諏訪原城奪取は、天正3年8月のことである。翌4年3月17日に、旧駿河守護今川氏真を城主とし、松平家忠(甚太郎)・松平康親に補佐させ、駿河侵攻の旗印とした。氏真は、天正5年3月1日に浜松へ召還されているため、城主であったのは1年間程であった。落城から7か月程で、二の曲輪から西側の普請が完了したとは思えないため、焼土と化した本曲輪を造成し、氏真の居所とする場所の整備が実施された程度であったと考えられる。その後、天正6年から、3年程普請が続いたことは、上記のとおりである。とすれば、この6年からの記録が、二の曲輪の造成を含む、牧野城の本格的改修の記録と考えられよう。3月10日に牧野城へ入った家忠は、11日から普請を開始し、18日には普請が完成し、浜松へと帰っている。工事期間は一週間。次に、8月7日に在番を替り、翌8日より堀の普請を開始し、20日に完成、工事期間は12日である。次いで、9月4日には、家康が牧野城へ来陣、市場普請を開始、7日に完成、工事期間は4日間になる。この記録は、あくまでも松平家忠(又八郎)の普請の記録であり、この間常駐の城番(定番衆)として東条城主の松平家忠(甚太郎)と牛久保城主の牧野康成を置き、別に交代番として西山城主西郷家員、深溝城主松平家忠(又八郎)、二連木城主戸田康永を半年毎に1か月間勤めさせていた。家忠(又八郎)だけではなく、交代番の武将たちも工事を引き継ぎ続行していたとすれば、その工事量はかなりの規模となる。3年間の間、交代しながら続行していたと考えれば、二の曲輪以西が全て新造としても、決して不可能な数字ではなく、むしろ余裕があったのかもしれない。記録に見る天正7年の普請は、番普請・塀普請、翌8年も番普請である。天正6年が堀や土塁と言った土木工事で、7年以降が上屋構造物の構築、所謂作事とも推定される。
今回の調査で、徳川氏による新造の馬出と判明した二の曲輪中馬出について触れておきたい。まずその規模であるが、最も幅広となる中央部(東西幅)で約28m、二の曲輪よりの最大幅は約50mで、約300坪強(約1000m2)の面積を持つ曲輪であった。縁辺部には、幅約11mの土塁が存在し、土塁外側に約1.2mの犬走り状を呈す通路上の遺構を確認している。これらの状況から、馬出平坦面として使用できる面積は、約230m2でしかないことになる。南北側の虎口開口部は4~5m、二の曲輪側土橋(中央で途切れ木橋となる)幅も4m前後でしかない。さらに、北側土橋は、北に幅4m前後で50m伸び、重ね馬出となる北馬出へと接続している。この構造では、攻城戦に際し、馬出内に兵力を配置し、ここから敵方に逆襲することは出来ない。馬出本来の機能を持たない馬出としか言いようがない。では、何のためにこれだけ巨大な馬出を徳川氏が前面二カ所に構築したかである。それを考えるヒントが、幅約11mにも及ぶ土塁の存在である。通常の土塁と同様で、45度の法面として、上端部に5mの平坦面を確保し、その前に土塀を構えたと想定してみよう。その場合、土塁の高さは3mとなる。外側に対して、3mの高低差を持って攻撃可能なスペースを持つ曲輪だったのである。形こそ、武田氏の丸馬出と共通するが、その機能はまったく異なっていたとしか思えない。さらに、二の曲輪側土橋も二の曲輪北馬出側土橋も、接続は木橋を採用し、万が一に際しては、切り離そうとしている。従って、形は丸馬出だが、機能は最前面に配した出丸としか言いようがない。長篠合戦で勝利した徳川氏は、間近で織田軍による鉄砲戦術の効果を認識したのであろう。分厚く高い土塁を盾とし、前面全周約80mに渡って火器を配備し、火力による敵の撃退を目的にした曲輪として構築したのである。従って、自分たちは出撃する必要が無いため、敵の侵入を阻止するために通路幅を狭くし、さらに木橋によって進路遮断を可能にしていたことになる。形こそ異なるものの、二の曲輪もまた台地側に幅約20mにも及ぶ土塁を300m程にも渡って構築している。二の曲輪の幅は約40~50mであったため、曲輪面積の半分程を土塁が占めていたことになる。二の曲輪も、平坦面の確保を目的に造成されたというより、射撃陣地とするために設けた可能性が高い。最南端の三カ所の小型丸馬出も、幅約20mの外堀によって分断されており、馬出的機能よりも出丸としての機能が優先されている。徳川氏は、武田氏の丸馬出を巨大化し利用するものの、まったく別の機能を持つ曲輪として配置したのである。巨大な土塁を背にした外堀と、丸馬出の持つ扇形の外周によって、迫りくる敵兵に様々な方向からの射撃を施すことが可能となった。徳川氏の改修によって、諏訪原城は極めて強固な防備を持つ、駿河侵攻の拠点としての役割を担う「牧野城」となったのである。
3.武田時代の諏訪原城
平成16年から27年にかけて実施された発掘調査成果から、武田時代の城の構造について考えておきたい。現時点で、確実に武田時代の遺構面が確認されたのは、本曲輪、二の曲輪東内馬出、二の曲輪東馬出の三カ所の曲輪である。その他の曲輪からは、武田時代と考えられる遺構面は確認されない。従って、武田時代の諏訪原城は、本曲輪と、二の曲輪東内馬出と二の曲輪東馬出を合体させた曲輪を南端に出丸のように突出配置した極めて小規模な城であったと推定される。
元亀3年(1572)、武田信玄は駿河から遠江に侵攻、中遠諸城を陥落させ、遠江平野部と山間部の結節点に位置する拠点・二俣城を奪取し、さらに三方ヶ原において徳川家康を撃破した。信玄は、さらに国境を越え三河へと侵攻、野田城(愛知県新城市)を攻めるが、この頃から急激に病状が悪化、さらなる侵攻作戦を中止し甲斐へと軍を戻す途中で病没してしまう。
この軍事行動で、武田氏は、北遠地域を支配下に置くと共に、遠江の要衝・二俣城を手中にしたのである。二俣城は、天竜川と二俣川の合流点に位置し、信濃から山間部を通り遠江平野部へ至る入口であり、浜名湖北岸を通り、本坂峠越えの街道(後の姫街道)が南を走り、浜松や国府見付へと通じる街道が交差する要衝の地であった。二俣の地を奪われたことは、家康にとって死活問題で、いつ居城・浜松城が攻撃にさらされても不思議でない状況を生むことになった。
信玄の跡目を継いだ勝頼は、田中城(藤枝市)を拠点に、東遠江侵攻を目指し、父・信玄すら落とすことが出来なかった難攻不落と呼ばれた拠点・高天神城奪取を目論んだ。その第一歩が、駿河・遠江の国境大井川の渡河地点の確保であった。牧之原台地の舌状台地の先端部に位置し、東海道に面し、大井川の渡河地点を見下ろす地への築城である。ここに城を築けば、渡河地点の安全が確保されるだけでなく、小夜の中山を経由すれば掛川城があり、菊川坂を抜けて南下すれば高天神城へと至るのである。二俣城を失い、浜松城周辺の防衛ラインの再構築を優先せざるを得ない家康の隙をねらい、天正元年(1573)諏訪原城が築かれた。元亀2年に、大井川を越えて遠江に侵攻した信玄は、大井川西方の防衛ラインとして小山城(吉田町)を大改修し、すでに大井川河口の拠点としており、同年更に南下し滝境城(牧之原市)をも築いている。諏訪原城が築かれたことにより、東海道以南の大井川西岸は武田軍により制圧されたことになり、高天神城陥落は時間の問題と言う状況に追い込まれてしまった。
諏訪原城は、牧之原台地が大井川に突出し、その南北が浸食作用で崖地形を呈す突端を占拠し、南北の谷地形を繋ぐように横堀を設け、独立した主郭を構えている。現在の主郭は、幅約20mの堀と基底部で10m内外の土塁によって囲まれているが、これは武田段階の遺構を埋め立て造成したものと判明して
いる。武田段階は、幅約6m程の堀と土塁によって囲まれていたとするのが妥当である。これは主郭虎
口前面に丸馬出を想定し求めた数字である。諏訪原城の前年に築かれた小山城の構造を見ると、主郭虎口前面に丸馬出を配置している。当然、諏訪原城も、主郭前面に武田氏得意の丸馬出を構えていたと考えたい。現在、県内で武田氏段階の丸馬出の全容が判明しているのは、興国寺城のみである。この興国寺城の馬出が、前面の三日月堀(幅約4m、さ3.8m)まで含めて幅12m程である。二の曲輪の発掘調査で馬出の痕跡が確認されていない為、徳川段階の堀によって完全に消滅したとしか考えられない。徳川氏の堀幅が20m、丸馬出が12mとすると、通路幅を一間とすれば、消滅するためには6m以内ということになる。この数字は、武田段階の堀として、決して見劣りのする数字ではない。勝頼は、虎口前面に丸馬出を配していたと考えて問題ないということである。主郭前面には、広く平坦な台地が展開していることからも、丸馬出を設けることで、動線を複雑にし敵の侵入を阻むと共に、側面攻撃可能なスペースを確保する必要があったのである。また、出撃拠点の目的もあったと思われる。虎口形態ははっきりしないが、徳川段階では内桝形を形成し、前面に礎石城門を配す。武田段階には、丸馬出が前面に配されていたとすれば、虎口は馬出の内側の見通しを遮る為に両袖型の枡形とするのが妥当であろう。また、浸食谷となる主郭の三方には横堀が廻ると共に、南端部は竪堀と竪土塁に接続し終息する。この他、数条の竪堀が北から東にかけて設けられている。調査が未実施であるため、徳川・武田どちらかの遺構と断定は出来ないが、武田段階としても問題は無いと考えられる。武田段階の主郭は、極めて小規模で補給拠点としての機能は推定しにくい。むしろ、小山城・滝境城の両城の安全確保のために、掛川城を拠点に東進しようとする徳川軍への牽制目的と、両城から高天神城攻めを敢行した場合の押さえの役割が優先されたのであろう。
天正3年5月、武田軍は長篠合戦において織田・徳川連合軍に大敗を喫してしまう。家康は、ただちに二俣城奪還をめざし、犬居城(浜松市)攻めを敢行するが失敗。だが、光明城(浜松市)を陥落させ、二俣城の四方を固めた陣城によって、完全に孤立させることに成功した。北遠地方の憂いを取り除いた家康は、7月中旬諏訪原城に押し寄せた。徳川勢は、松平忠正が諏訪原城の出丸である亀甲曲輪を攻め落とし、次いで松平真乗が菊川方面から猛攻を加えた。だが、諏訪原城守将の海野・遠山氏らも奮戦、容易に陥落せず、攻防戦は1ヵ月に及んだ。8月初旬、危機に瀕した城を救うために、勝頼は後詰の陣触れを行うが、長篠合戦での大敗が響き思うように軍勢を集めることが出来なかった。8月23日、遂に家康自身が出陣、日坂久延寺に本陣を置き、総攻撃が始まった。勝頼の後詰も間に合わず、兵糧も尽き始めた武田軍は、密かに城を脱出し、小山城へと逃亡した。逃亡に際し、主郭に火を放ち再利用がされないようにするのが精一杯であった。この諏訪原城攻めで、最初に陥落した出丸が、南端に位置する二の曲輪東内馬出と東馬出である。発掘調査によって、周辺域から53個の鉄砲玉が出土し、激しい戦闘があったことを裏付けた。城の前線に位置し、出丸機能を持っていたため、この曲輪が狙われたのであろう。武田方は、幅約7m、深さ4m程の堀で囲み、周囲に土塁を構えていたことが、発掘調査成果から確実となっている。武田時代は、二の曲輪東内馬出と東馬出は一帯の構造で、曲輪は三角形を呈し、南北、東西共に50m程であった。主郭から南に突出した出丸であり、側面陣地でもあった。
このように、発掘成果から、武田時代の城の構造を推定することが可能となったのが、今回の調査の最大の成果であろう。武田時代の諏訪原城は、少数兵力で守備可能な極めてコンパクトな城だったのである。中心となる主郭は、堀と土塁に囲まれ、斜面には竪堀、前面には丸馬出が配されていた。平坦な台地上から、主郭虎口に敵が押し寄せた場合を想定し、南端部に側面陣地となる出丸を配し、防備強化が施されていたのである。
なお、武田段階の構造については、樋口隆晴氏と意見交換をする中で、成果としてまとめたものである。細部については、両者で若干異なる部分も見られる。樋口氏の考えについては、「東海の要衝、二つの貌 諏訪原城/牧野城」『歴史群像』No.146 (株)学研プラス 2017年にまとめられている。併せて一読いただければ、より武田時代の城の姿が判明しよう。
(第1図)武田勝頼による遠江侵攻戦(元亀2年~天正3年頃)
(第2図)武田時代の諏訪原城推定復元縄張図(復元=樋口隆晴/加藤理文)
門の礎石検出状況(二の曲輪)
堀断面検出状況(二の曲輪東内馬出)
※赤線部分が武田氏時代
※青線部分が徳川氏時代
※武田氏時代の薬研掘(赤線部分)を改修し、徳川時代(青線部分)の箱掘が構築されている
参考文献
・小和田哲男編 『日本城郭体系9 静岡・愛知・岐阜』 新人物往来社 1979
・『静岡県の中世城館跡』 静岡県教育委員会 1981
・村田修三編 『図説中世城郭辞典』二 新人物往来社 1987
・『遠江諏訪原城 大手曲輪跡発掘調査報告』増補版 金谷町教育委員会 1987
・八巻孝夫 「武田氏の遠江侵略と大井川城塞群」『中世城郭研究』第2号 中世城郭研究会 1988
・小和田哲男 『静岡県の城物語』 静岡新聞社 1989
・『遠江諏訪原城 大手曲輪跡第3次発掘調査報告』 金谷町教育委員会 1991
・『諏訪原城保存管理策定報告書』 金谷町教育委員会 1993
・小和田哲男監修 『図説 遠江の城』 郷土出版社 1994
・加藤理文・中井均編 『静岡の山城ベスト50を歩く』 サンライズ出版 2009
・『静岡県における戦国山城』 静岡県考古学会 2010
・『戦国時代の静岡の山城 - 考古学から見た山城の変遷 -』 サンライズ出版 2011
・『国指定史跡諏訪原城跡整備基本計画』 島田市博物館 2011
・加藤理文 『静岡の城 研究成果が解き明かす城の県史』 サンライズ出版 2011
・加藤理文編著 『静岡県の歩ける城70選』 静岡新聞社 2016
・樋口隆晴 「東海の要衝、二つの貌 諏訪原城/牧野城」『歴史群像』No.146 [機種依存文字]学研プラス 2017
・『諏訪原城の調査書』 金谷町教育委員会 1954
・『諏訪原城史』 清水勝太郎 1975
・「諏訪原城」 『町の文化財』 金谷町教育委員会 1988
・『武田系城郭研究の最前線』 山梨県考古学協会 2001
・『新視点 中世城郭研究論集』新人物往来社 村田修三他 2002
・『金谷町史 通史編』 金谷町 2004
・『図説金谷町史』 金谷町 2005
・小林芳春 「古戦場から出土した火縄銃の玉 その2 その後の出土と鉛の原産地」
『新城市設楽原歴史資料館・新城市長篠城址史 跡保存館 研究紀要第16号』 2012