天正3年(1575)8月に、武田氏の城であった「諏訪原城」が徳川家康により攻略され「牧野城」と改称されたことにちなみ、「牧野城御城印」を作成しました。
諏訪原城が攻略された8月に合わせ、諏訪原城ビジターセンターにて限定販売します(購入には事前申込が必要です。)
↓↓お申込みはコチラから↓↓(令和7年7月24日(木)午前9時~申込開始)
「牧野城御城印」購入申込フォーム
★牧野城に在城した徳川の武将の家紋をあしらった新デザイン!
牧野城御城印販売
購入申込フォームから事前申込のうえ、引換期間中に諏訪原城ビジターセンターにて現金で購入してください。
申込方法
- 事前申込開始日:7月24日(木)午前9時~
(先着順・1人2枚まで。300枚限定。定員に達し次第受付終了。) - 申込方法:購入申込フォームから申込
引換方法
- 引換期間:令和7年8月19日(火)~24日(日)午前10時~午後4時
- 引換場所:諏訪原城ビジターセンター
- 販売価格:500円(現金のみ・現地にて支払い)
注意事項
- 事前の申込のない方には販売しません。必ず事前に購入申込フォームからお申込みのうえ現地にお越しください。
- 事前の申込の有無に関わらず、郵送での販売には原則対応できません。
- 事前申込された方であっても引換期間以降の販売は原則いたしません。
- お問い合わせ先:島田市博物館文化財係(TEL:0547-36-7967)
牧野城とは
天正元年(1573)、武田勝頼は遠江侵攻の拠点として牧之原台地に「諏訪原城」を築きました。
天正3年(1575)8月、諏訪原城は徳川家康によって攻略され「牧野城」と改称されました。「牧野城」の名称は、元々の「牧野原」の地名から取ったとする説や古代中国の故事に因むとする説があります。家康は、牧野城を国境防衛の拠点として複数回に渡る改修を施しています。現在の城跡に見られる巨大な堀や丸馬出は徳川時代の改修によるものとされています。
天正18年(1590)、徳川家康が関東へ移ったことで廃城になったと考えられています。
※諏訪原城ホームページもご覧ください。
牧野城に在城した徳川の武将たち
「牧野城御城印」に記された家紋の武将たちを紹介します。
徳川家康
三河・遠江を治める戦国大名。元亀2年(1571)頃から国境を接する武田氏との間で攻防を繰り広げました。天正3年(1575)5月に長篠・設楽原の戦いに勝利したことで攻勢を強め、同年8月には諏訪原城を攻略しています。諏訪原城を牧野城と改称し大規模な改修を施しました。家康自身も武田氏との戦闘のなかでたびたび牧野城を訪れています。
今川氏真
駿河今川氏の当主。桶狭間の戦いで父・義元が討死して以降、今川氏の勢力維持に努めました。永禄12(1569)年、武田・徳川の侵攻により戦国大名としての今川氏が滅亡すると、徳川家康の庇護下に入っています。
徳川氏の武将として諏訪原城攻めに従軍したほか、牧野城となってからは城主を務めました。現在、今川氏真の和歌に記された「八月廿四日諏訪原新城降参」との記述から諏訪原城の落城は天正3年8月24日とされています。(『今川氏真詠草』)
松井忠次(松平周防守)
三河国を拠点とする松井氏の一族。安城松平氏(徳川家康の一族)の庶流・東条松平氏に仕えて戦いました。諏訪原城攻略後、徳川家康が城の守備を諸将に呼びかけた際、誰も名乗り出なかったが、ひとり忠次が進み出て守備を申し出た、というエピソードが伝わっています。(『寛永諸家系図伝』ほか)これにより「松平」の苗字を使うことを許され、牧野城の守将を務めました。
子孫は岸和田藩(大阪府岸和田市)や浜田藩(島根県浜田市)の藩主となっています。
牧野康成
三河国牛久保城(愛知県豊川市)を拠点とした牧野氏の当主。徳川家康に仕えて掛川城攻めや長篠・設楽原の戦いで活躍しました。牧野城においては松平忠次らとともに常駐し守将を務めています。後に上野国大胡藩(群馬県前橋市)の初代藩主となりました。
松平家忠(深溝松平家)
深溝城(愛知県幸田町)を拠点とした深溝松平氏の当主。戦国時代の情勢や生活を書き残した『家忠日記』の作者として知られています。牧野城へは交代制の城番として、たびたび入城しています。『家忠日記』からは、家忠が牧野城において「堀」や「塀」の普請を行ったことや、守将たちから「ふる舞」(饗応)を受けたことなどが窺えます。
※上記の他にも、松平甚太郎、西郷家員、戸田康長らの武将が牧野城に在城しています。